1948年の戦後第3回の日本職業野球リーグで優勝した際、
GHQ経済科学局長・
ウィリアム・フレデリック・マーカット少将(
M資金の語源)が南海球団の松浦竹松社長に「ホームタウン・ホームグラウンドはどこか」と問うと松浦は「大阪府が本拠であるが、自前のグラウンドがないので、
甲子園を使わせていただいている」と答え、マーカットは自前のグラウンドを建設してもいいと提案。そこで、これまで公式戦を開催したことのなかった
大阪市に目をつけて、南部の最大の繁華街である南海難波駅前にあった専売局の工場跡地に建設することになった。同じ大阪を拠点とする
大陽ロビンスも北区の旧関西相撲協会の国技館跡を建設候補地に上げていたこともあったが、
阪神タイガースや
阪急ブレーブスの
フランチャイズがある
西宮市(
兵庫県)と競合する恐れから断念した経緯がある。
1950年9月12日、工期わずか8ヶ月の突貫工事で完成した同球場は正式には
大阪スタヂアムといわれる。戦災後の復興期にあり、粗末な
バラックばかりがひしめき合っていた大阪市内の中心部で本格的な
鉄筋コンクリート造りの大規模建築として完成した大阪球場は、当時「
昭和の
大阪城」とたたえられた。建設当初のグラウンドの広さは両翼84メートル、中堅115.8メートル。副収入を得るため、日本の球場では初めて観客席下に多数の
テナントを入居させるスペースを設けた。この空間確保と、狭い敷地に極力多くの客席を設けるという2つの目的によってスタンドを急傾斜に設計したことから「すり鉢球場」と言われた。内野スタンドの傾斜は37度にも達し、このため打球音が銃撃音にも似た独特の反響を残すことは選手の間でも知られていた。酔っ払いが足を滑らせてスタンド下まで転げ落ちたという逸話まで残っている。
前述の通りグラウンドが非常に狭く、当たり損ねの打球がフラフラと外野フェンスを越えてホームランになってしまう投手泣かせの球場であった。現役時代の
西鉄・
中西太はこの球場で
バットを折りながらも打球を外野スタンドへ入れたと言われている。
杉浦忠、
皆川睦雄ら南海黄金時代のエース級
投手の絶妙な制球力はグラウンドの狭さによって培われたとの説もある。
1951年に関西地区の球場で初めて夜間照明設備を設置し同年初
ナイターを実施(南海-
毎日戦)。また内野スタンドに日本初の
ボックス席を設けたのもこの球場である。
1950〜
60年代は
鶴岡一人監督率いる南海の黄金期で、毎年のように優勝争いを繰り広げており、当時の関西では南海は阪神を凌ぐ人気球団であった。またこの当時の有名なエピソードとして、
1963年8月29日の南海-阪急戦で、雨による2時間14分の中断後グラウンドに
ガソリンを撒いて火を付け、水分を蒸発させ試合を再開させたというものがある。勝ち試合であること、日本記録ペースでホームランを量産していた
野村克也がこの試合でも1本打っていたためにそれを生かしたいという南海サイドの思惑によるものだった(現在は、消防法によりこのような行為は禁止されている)。