戦時中の日本では、対米英並びに対蘭及び対中戦争を「大東亜戦争」と呼称していた。この呼称は1941年(昭和16年)12月10日の
大本営政府連絡会議によって決定され、同12月12日に閣議決定された。閣議決定「今次戦争ノ呼称並ニ平戦時ノ分界時期等ニ付テ」
[[外部リンク] 「今次戦争ノ呼称並ニ平戦時ノ分界時期等ニ付テ」(昭和16年12月12日 閣議決定)、国立国会図書館]は、その第1項で「今次ノ対米英戦争及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戦争ハ支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称ス」と明記し、「大東亜戦争」の呼称と定義を正式に決定した。同日
情報局より、「今次の対米英戦は、支那事変をも含め大東亜戦争と呼称す。大東亜戦争と呼称するは、大
東亜新秩序建設を目的とする戦争なることを意味するものにして、戦争地域を主として大東亜のみに限定する意味にあらず」と発表され、この戦争は
アジア諸国における
欧米の
植民地支配の打倒を目指すものであると規定した
[瀬島龍三によれば「大東亜戦争とは・・・大東亜新秩序を建設するための戦争であるから「大東亜戦争」と呼ぶというわけのものではない・・」「単に大東亜の地域において戦われる戦争という意味合いにすぎません」「大東亜の地域とは、おおむね、南はビルマ以東、北はバイカル湖以東の東アジアの大陸、並びに、おおむね東経一八〇度以西すなわちマーシャル群島以西の西太平洋の海域を指す・・・インド、豪州はふくまれておりません」(「大東亜戦争の実相」瀬島龍三P.23)]。この方針は
1943年(昭和18年)11月の
大東亜会議で「再確認」がなされている。
「大東亜戦争」の呼称はもともとは
陸軍案として1941年(昭和16年)12月10日の大本営政府連絡会議に提出されたものである。
海軍は呼称を決定する大本営政府連絡会議の席上で「太平洋戦争あるいは対米英戦争等」の呼称案を提出したが採用されなかった
[種村佐孝著『大本営機密日誌』(ダイヤモンド社、1952年)]。「太平洋戦争」が採用されなかった理由は、陸軍側が「太平洋戦争では支那事変を含むと理解しにくい」と主張したためであった。しかし海軍内部では戦争中も「太平洋戦争」の呼称が用いられたといわれている。これは海軍が支那事変(日中戦争)にはさほど関与しておらず、海軍にとっての戦争は真珠湾攻撃以降であるという認識に起因するものと考えられる。
対米英宣戦布告前から、日本の中央部では将来発生する可能性の高い戦争を「対米英蘭
蒋戦争」、「対米英蘭戦争」、「対英米蘭戦争」などと呼んでいた。ただし、対オランダに関しては、1941年(昭和16年)12月1日の
御前会議で開戦を決定したものの、同12月8日の「」では宣戦布告の対象から除かれており、
1942年(昭和17年)1月11日の対蘭戦の開始および翌日の宣戦布告までは正式には「対米英蘭戦争」とは呼んでいない。